昨日のFUNゼミ「名作塾」では、「自分の感性を信じること」について話した。
ちょっと再現してみれば…
~若い頃には自分の好きなものを好きと信じ抜くことができず、周囲の人たちが好きなものを好きになれないと葛藤を抱くこともあるだろう。
また、周囲の人たちが好きでないものを好きである自分の孤独に耐えかねる時もあるだろう。
孤独に耐えかねるあまり、人が好きなものに無理して合わせようとして、自分を偽ることもあるかもしれない。
しかし、本当の感性はそうして孤独に耐え抜き、好きなものを好きと感じ続けることから生まれるのではないか。
このFUNにも、自分ではずっとそれが好きだが、それをなかなか人に言えない思いに苦しんできた学生がいるかもしれない。
だが、FUNは好きなものを好きと信じ、話し、共感しあえるサークルにしよう。~
これだけではないが、まぁ、こんな感じのことを話した。
終了後、最近入部したばかりの金山君がつかつかと歩み寄ってきた。
どうしても、言いたいことがあるような表情だ。
金山 「僕、高校の時からずっとクラシックが好きなんです。中でも、オーケストラの指揮者が大好きなんです」
私 「へぇ、それは素晴らしい。指揮者っていうと、フルトヴェングラーとか?」
金山 「フルトヴェングラー!?知ってるんですか!…僕、ずっとクラシックを聞いてて、高校の時、それを友達に言っても、何の興味も示されませんでした。
大学に入って、クラシック愛好会なんかを探したけど何もなくて、いつもヨドバシカメラや天神のレコード店で名盤を聴いてるんです。」
これから、金山君は堰を切ったように、クラシックへの愛情と強い思いを40分近く語り出した。
目は生き生きと輝き、山田さんと大月さんと一緒に聞いていたのだが、本当に、心からクラシックと指揮者を愛しているという気持ちが伝わってきて、本当に嬉しそうだった。
大月さんは最近、テレビでカルロス・クライバーの番組を見て、「指揮者ってすごい!」と感動していた。
私は父の影響でフルトヴェングラーやカラヤンが好きだが、金山君の知識はとても豊富で、詳しい話にはついていけなかったが、芸術的感性は通じるものを感じて、とても嬉しくなった。
それは、私がひそかに好きなクラシックを好きな学生に出会えた喜びというよりも、ずっと好きなものを抱き続け、一人コツコツと愛情を育てている若者にまた一人出会えた喜びだった。
私は五歳の誕生日に、父から指揮棒をプレゼントされた。
父は九州交響楽団に所属していて、仕事そっちのけでオペラやクラシックにはまりこんでいた。
子供の頃から、私は父の膝の上で、音楽を聴きながら、チャイコフスキーやシューベルトの伝記をずっと話してもらった。
ベートーベン、ブラームス、モーツァルト、バッハ…延々と、何日間も聴き続けた。
父は息子の私に何かを託すように、ずっとずっとクラシックを聴かせ続けた。
軽くウィスキーを飲んでレコード盤に向かう時の父は、子供の私にも、本当に幸せそうに見えたものだ。
父は指揮棒(タクト)を何本か持っていたが、感情が高ぶってくると、目をつぶってタクトを振り、完全に一人の世界に入って酩酊状態となっていった。
「大きくなったら、指揮者になってほしい」。
「音楽家は、全てを手に入れることができるんだ」。
父の口癖だった。
母はシャンソンやカンツォーネが好きだったから、シャルル・トレネやリュシェンヌ・ボワイエ、アダモ、ジルベール・ベコー、エディット・ピアフや、ディ・ステファノをずっと聴かせてくれた。
私の母はピアニスト兼バイオリニストだから、リストやショパンなどは、何百回聞いたか分からない。
私の携帯の着メロは、あまり鳴らさないが、リストの「愛の夢」だ。
五歳の誕生日に指揮棒をもらった私は、もちろん、それがあまり嬉しくなかった。
四歳の弟は「プラレール」だったからだ。
ちなみに、私が四歳の時の誕生日プレゼントは「鳩時計」だった。
天神で鳩が飛び出してくる時計を見て、店で時計をひっくり返してあれこれ眺め続けた私を覚えてくれていた父が、贈ってくれたのだ。
もちろん、それも嬉しくなかった。
時計にしろタクトにしろ、4、5歳の子供には何の魅力も実用性もなく、「えぇ?」と思ったものである。
その意味が分かってきたのは、中学生の時くらいだ。
タクトは父の形見だから、私はその意味をずっと考え続けた。
「大きくなったら、指揮者になってほしい」。
もちろん、私には楽器を演奏する技術などない。
中学まではピアノを弾いていたが、それとて本格的なものではなく営業用で、高校から大学にかけてはギターをやったが、クラシカルロック中心だ。
私は音楽よりも、当時はゲーム、そして戯曲が好きだった。
といっても、大衆的な人気作ではなく、クラシカルなゲームやスペースオペラ風のRPGで、ゲームが好きな人でも、あまり知らないような作品ばかりだ。
ゲームそのものよりも、ゲームの世界観やシナリオ、音楽が好きで、特にファルコムの「イース」シリーズが好きだった。
ずっとその音楽をつけっぱなしにしていて、母が「もう煉らんと?」と部屋に来た。
「いや、音楽聴いてただけ」。
母はちょっと驚いて、「へぇ、シュトラウス風やね」と言った。
わが家はこんな会話が日常的だったから、これは母の普通の返事だったが、私もそれに驚いて、「へぇ、これはシュトラウス風なのか…言われてみれば、皇帝円舞曲っぽいな」などと思ったりした。
ファルコムだけでなく、セガやタイトーも、ほかにはエニックスやスクウェアも、社内楽団を持っている。
そのアーティストたちは、「たかがゲーム音楽」だが、本当に幸せそうにゲームの世界観に浸っていた。
市販用ゲームではFM音源やビープ音、MIDI音源だけだが、楽団ではあらゆる楽器を使える。
そこに彼らが本当に表現したい世界があった。
クラシックのように高尚で優雅ではないが、当時の私には、そんな人たちが本当にいい仕事をしていると思えたものだ。
世間には知られず、マニア扱いされているが、この人たちは自分のやっている仕事が何なのかを分かっているのだろうと好ましかった。
私は「会計塾」でいつも話しているように、企業経営者も指揮者だと思っている。
経営資源や仲間の力を組み合わせて引き出し、社会に壮大なビジネス・オーケストラを奏でるのが社長の仕事だ。
私はそういうふうに考えているから、レジュメを作るときは、その世界観を作るインスピレーションを得ようと、よくクラシックやその他の音楽を聴く。
講義もオーケストラのようなものだと思っている。
講義のテーマは様々だが、私は私の世界観を表現し、ここに一人でも多くの観客を呼び込んで、観客から演奏者に変えていきたい。
楽曲の題目は仕事、就職、人生、学問、事業、経営などといったもので、私はその指揮者だ。
こういう形ではあるが、私も少しだけ父の遺志を実現できているようで、ひそかにそれが心の支えである。
だから、昨日、金山君が嬉しそうにクラシックについて語り始めた時は、こんな記憶がじんわりと蘇ってきて、とても愉快だった。
年齢はずいぶん離れてしまったが、金山君も私のように、というより私以上に、クラシック音楽に対する情熱をひそかに保ち続けてきたのだろう。
実に頼もしい若者が入部してくれたものだ。有り難いし、嬉しいことだ。
諌山君や増田君があの場にいたら、きっと、昼食を忘れて語り合っていただろう。
FUNは将来、様々な分野で活躍する未来の指揮者
を育てるサークルだ。
そのために、大工道具ならぬ、感性と知識という自分の楽器を磨き続けている若者がまた一人増えた。
本当に仕合せな時間だった。
■Strauss - Unter Donner und Blitz - Karajan(カラヤン)
■Furtwangler on 4.19.1942 Full edition(フルトヴェングラー)
■Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.1(1)(カルロス・クライバー)
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