2009年5月14日木曜日

昨日の近現代

4年目を迎えた近現代史勉強会。


今年は2~4年生が揃っており、今月は「文献と丁寧に向き合おう」というテーマを掲げてやっている。


単位にも資格にもならない地味な勉強会だが、本物の学力を鍛えるには、こういう遠回りしかない。


いずれ、無意識のうちに読書力が高まっていることを実感するのではないだろうか。


さて、昨日は近現代ではおなじみの尾崎秀実が出てきた。


私はこの人物のことをかなり調べた経験がある。


敗戦直後に出された獄中手記も持っているし、評伝、関連資料もけっこう持っている。


私が知った歴史上の人物の中で、これほど不可解な人物はいない。


初めて知ったのは今の学生と変わらないくらいの年齢の時だったが、とにかく驚いたものだ。


なぜか。


それは、「負けるための戦争」を「聖戦」と偽装して祖国を裏切ったからだ。


そう言えば、私が働いていたマレーシアの国軍は10万人もいなかった。


自衛隊も20万人ほどだ。


それが、戦時中の帝国陸軍は、700万人もの軍人を抱えていたという。


もちろん、全員が正規の装備、正規の報酬ではなかっただろうが、単純比較だけでも気の遠くなるような数字だ。


これだけの軍隊の生活、進軍、物流、戦闘を支える国家の経済は、統制経済でなければやっていけないだろう。


その陸軍のうち、最精強の巨大部隊が、満洲の関東軍だった。


もちろん、ソ連に備えるためである。


それがどうしたことか、わが国は真珠湾とシンガポールを攻撃した。


シンガポールには海外勤務中に何度も行ったが、上陸するたびに、歴史のことをあれこれ考えたものだ。


シンガポールからジョホール、マラッカ、クラン…と北西に走る景色からは、世界一交通量が多いマラッカ海峡が一望できる。


博多湾や東京湾とは比べ物にならない光景だ。


この海域を支配できれば、巨大な勢力圏を築けただろう…などと思ってしまうほどだ。



さて、そんな旅情はよいとして、私が解せなかったのは、「日本が侵略目的で戦争を起こした」という歴史認識だった。


私は戦前、戦時中の日本人が聖人君子の集まりだとは思わないし、中には弱いものいじめが好きなひねくれ者もいただろうが、それにしても、どこをどう勉強しても、侵略という国策があったとは思えなかった。


それ以前に、戦後になっても戦争目的をめぐって議論が尽きないことが不思議だった。



東南アジアを支配して大東亜共栄圏を作るのが目的だったとは言っても、日本軍の戦略はかなり拙劣だ。


英米から植民地を解放するのが目的だったなら、それが果たされた昭和17年夏あたりで停戦していたはずだ。


戦争でも経営でもある行為には目的があって、それが果たされれば停戦、終戦、打ち止めにするのが普通だ。


それが、大東亜戦争はどうか。


敗戦に至るまで、客観的には停戦してもよさそうなタイミングはいくつかあったように見えるが、石油の備蓄が尽きても、ミッドウェーが落とされても、鉄がなくなっても、南太平洋や東南アジアを失っても、やめない。


植民地を解放しても戦争を続け、失っても戦争を続けた。


石油を確保しても停戦しなかったが、石油を失っても停戦しなかった。



日本人にも複雑怪奇に見えるこの戦争を、外国人が知った時に、「日本はどうしてあんな愚かな戦争をしたのか」と不思議がるのは当然だろう。


「愚かな」、「解せない」、「大変な」という評語は東欧やアフリカの人から少し聞いた。


それは、韓国人や中国人がわが国に優越感を持って言う場合の「愚か」とは違い、「道理では理解できない」という不可思議さの表明だった。


当時の私は、もちろん、何も答えられなかった。



要するに、戦時中のわが国は…。


英米に一撃を加えて有利な情勢に持ち込んでも、やめない。


東南アジアの植民地を解放しても、やめない。


資源を確保しても、やめない。


太平洋の拠点を奪われても、やめない。


植民地を失っても、やめない。


石油や鉄や弾薬が尽きても、やめない。


国内経済が疲弊しても、やめない。


沖縄に米軍が上陸しても、やめない。


原爆が一発落とされても、やめない。


国家を会社や個人に例えるのは規模も質も違いすぎるとは思うが、もし会社や個人で、こんなことをやる会社や人があれば、誰もその動機を知ることはできないだろう。


というより、破滅願望でもあるのではないか、と疑うはずだ。


敗戦後に戦争目的をめぐって議論が百出するのも当然だ、と思わずにはいられないほど、何のために戦争をしたのかがずっと分からなかった。


東南アジアの人が「日本」と聞いて連想するのは、ほとんどが自動車、家電、アニメ、そして戦争だ。


そして、日本の存在感は、我々が思っている以上に大きい。


世界で初めて、アルファベットを使わずに近代化した国家。


皇室の伝統を保ったまま、ハイテク工業で世界を席巻する国家。


奇想天外なアニメで世界中の子供たちを魅了する国家。


日本人の印象は「頭が良くお人よしで、ちょっとおっちょこちょい」というものだろうか。


だからこそ、そんな日本人が数十年前、どうにも理解できない戦争をしたのが不可解、という様子だった。


私もなるべく、友人の質問に答えてあげたかったのだが、こればかりは説明することができなかった。


私も日本人だから、祖先や祖国を否定するようなことを断言したくはなかったが、肯定できる理由もなかった。


さりとて、否定しきってしまうのは嫌だった。


勝ったら正しいとも言いたくないし、負ければ間違いだったとも言いたくない。


なんとももどかしい期間だった。


それが氷解した思いがしたのが、尾崎秀実の存在を知った時だった。


私は陰謀論や謀略論は嫌いだし、それだけで近現代史を片付けようなどというつもりは全くないが、それにしても、わが国の歴史からは社会主義の視点がすっぽり抜け落ちていることを感じずにはいられなかった。


マレーシアやタイでは、「共産ゲリラの脅威」は当時も現実のものだったし、どちらもイスラム教、仏教の信仰が篤いだけに、共産主義への嫌悪感は相当なものだった。


私が一般的な日本人には見えない心理が見えるようになったのは、一つは英語、韓国語、マレー語、インドネシア語を操れることにあるが、もう一つは、20歳で外国で働くという体験から、2年近くもどかしさを腹中にためこんでいたためだと思う。


とにかくもどかしい日々だった。


あの潜在的助走期間がなければ、帰国してむさぼるように歴史の本を買い、読みまくることはなかっただろう。


その尾崎秀実の本を、来週の近現代で今年も読む。


諌山君の理解力は大したものだ。


佐藤さんの洞察力も並外れている。


畑井さんの質問の着眼点は深く素直だし、四本さんの姿勢は誠実でおおらかだ。


みんな、一度では分からない本を何度も丁寧に読んでくれる。


私はその姿勢が、何より嬉しい。


来週の近現代はどうなるだろう。今からとても楽しみだ。


濱山君、松下さん、竹中君たちがこの光景を見たら、何よりの心の支えになるのではないだろうか。

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