2009年6月9日火曜日

夏目漱石と就活

自分の講演を自分のブログに載せるのはなんだかおこがましいが、先日の就活コースで行った漱石の「夢十夜」の講演は予想以上に好評だったので、掲載しておきたい。


文学は就職にもビジネスにも最強の学問の一つだと分かるのではないだろうか。



■mp就活コース「自分の軸を確かめよう」(1/7)2009.6.4




■mp就活コース「自分の軸を確かめよう」(2/7)2009.6.4




■mp就活コース「自分の軸を確かめよう」(3/7)2009.6.4




■mp就活コース「自分の軸を確かめよう」(4/7)2009.6.4




■mp就活コース「自分の軸を確かめよう」(5/7)2009.6.4




■mp就活コース「自分の軸を確かめよう」(6/7)2009.6.4




■mp就活コース「自分の軸を確かめよう」(7/7)2009.6.4

2009年6月6日土曜日

レジュメ改変

堤君たちの熱心な呼びかけで、第21回読書合宿・福田恒存の参加者が30名を超える見込みとなった。


参加者は読書合宿はもちろん、近現代、マネー塾、BCの経験もない学生が大半だ。


「唯物史観」から始まる去年のレジュメではかなり難解だろう。


ということで、全部書き直すことにした。


こういう無茶な作業が入ると、またもやいいパソコンを買ったものだと実感する。


動画を編集しながら、アップロードしながら、レジュメも作れるなんて。


しかし、山岡君のアングルは本当に上手だ。


私は収録現場にいたわけではないが、山岡君が友達の魅力を引き出し、姿をとどめようと、あれこれ考えながらカメラを扱う様子が目に浮かぶようだ。


昨日も、立ったまま2台のカメラを操るという難しい仕事をお願いしたのに、難なくこなしてしまった。


mp6の総合ディレクターとして、全国の卒業生に感動を届ける大役を果たしてくれそうだ。


みんな、呼びかけ、勉強、就活、友達のサポートを必死に頑張っている。


私ももう一息、頑張ろう。

2009年6月4日木曜日

近現代の講義

これまでに学生の前で何百回の講義をしてきただろうか。


私は座って話すよりも立って話すほうが好きだし、座談よりも演説の方が得意だとも思っている。


これまで経営者、社会人、主婦、子供、学生…いろいろな人たちの前で話してきたが、ほとんど緊張しない性格なので、前に立って頭が真っ白になったことなど、記憶がない。


一番緊張したのは、韓国の教育セミナーに参加した時、朴槿惠氏(朴正煕元大統領の長女)の前でスピーチした時だが、あの時も韓国語でスラスラと話せた。


私は前に立って、聴衆の反応や表情をゆっくりと確かめ、スピーチ自体を共同作業として一緒に作っていく過程が好きだ。


しかし、その例外がただ一つだけあることに最近は気付き始めた。


毎週水曜にやっている近現代史勉強会の講義は、話し始めると自分でも止まらなくなってしまうのである。


近現代だけは、座ったまま話しているのであるが、それが止まらない。


別に緊張しているのでもないし、ましてや、内容が覚束ないなどということでもない。


近現代の内容は、スピーチ塾やマネー塾以上に深く記憶しているし、私の20代の空き時間は、ほぼこういう勉強に投じられてきたために、緊張するような理解度ではないと思っている。


私はこの勉強会だけが唯一、言葉や語調を選ばなくて良い勉強会だと思っているためか、近現代で話していると、逆にいつもは案外気を遣っているのかと感じるほどだ。


もちろん、その気の遣い方とは、学生だから実社会の予備知識がないだろう、という気遣いでもあるが、それ以上に、育ちの悪い私が時折発する、調子の厳しい言葉に対する自制である。


それが、近現代では、何の遠慮も制約もなく、のびのびと話すことができる。


学生たちはどう思っているか知らないが、私は近現代が一番気楽で落ち着く。


それは何も、手を抜いているとか、土曜と水曜だけが私服で息抜きができるなどという意味ではなく、本当に語り合いたいことを語り合い、言いたいこと、伝えたいことを悔いなく話すことができて、幸せだということである。


だとすれば、私たち日本人は日頃、どれだけ相手の反応や表情を無意識のうちに観察しあい、知らないところで気疲れしているのだろうか。


もちろん、社交の範囲での遠慮や妥協はこの限りではないが、思い切って伸び伸びと語り合える場が得られないことは、時として閉塞感や徒労感を招く。


私は自分が率先して大胆に問題に切り込むことで、学生たちに、「ここは、ここまで話していい場なんだよ」ということを伝えたい。


国家、家族、人生、人間愛、歴史、学問なんて、学生同士でいて、まともに長時間、深く語り合うことがあるだろうか。


学生たちだって、本当はそんな真面目なテーマで、思いっきり語りあってみたいと思っているはずだ。


どれくらい「思いっきり」かというと、近現代から将来の夫婦やカップルが生まれるくらい、ここでは深い話題が分かち合われるようになればと思う。


人間の相互理解や相互尊敬は、結局、何をどう共有するかで決まるのだ。


だとしたら、歴史以上に人間そのものと、それを語る人の人格を表現する素材はないと思う。


近現代で読む文献は貴重で、私は何百万投じてきたか分からないが、それさえほぼ無料で提供して惜しくないのは、こんな立派な若者たちと一緒に学べる喜びは、いくらお金を積んでも買えないからだ。


文献以上に、一緒に学べる仲間こそ最高の財産だと思う。


同年代にそんな仲間が二十名前後いる学生たちは、ちょっと恩着せがましいが、本当に幸せ者だと思う。



ということで、私はいつも学生に「相手の存在を思うことが大切だ」と偉そうなことを言っているのだが、こと近現代に関しては、実はあまり相手の顔が見えていなかった気がしてきた。


それくらい、この話題を分かち合えるのが嬉しくて楽しいのだが、学生はどう思っているだろうか。


「楽しそうな小島さんを見るのも嬉しい」などと言う奇特な学生はいないだろうが、立場的に批判や忠告は受けにくいので、自分で観察して適応していくのも必要だと、今日の講義が終わってから感じた。


来週からは、学生の反応も見つつ、さらに良い講義を作っていきたいものだ。