2009年5月21日木曜日

ドトールの思い出

今日の近現代は西南で開催された。


ちょっと早く西新に着いて、庵道珈琲に行った。


実は、ドトールが閉店したことを忘れてそのままドトール方面に自然に歩いたのだったが、行ってみて、「そっか、閉店したんだっけ」と改めて思い出した。


あれだけ長く、何度も通ったお店だっただけに、体が勝手にドトールに向かったようである。


旧西新ドトールで最後にやったBCでは、永井君と同じ班だった。


そこで塾の面白い体験談を聞いた。



永井君の話では、成績が伸びる生徒さんは素直で、そうでない生徒は、試験直前の授業をさぼったり、急に自分で勉強すると言い出したりするとのことだった。


塾は生徒が一人ではできない勉強の場を提供し、成績を高める場所だ。


そこで教える先生たちはもちろん、生徒の何倍もの知識と経験を持っている。


だから、試験が不安であればあるほど、塾に頼るのが当然だろう。


ところが、伸びない生徒はそうは考えないらしいのである。



「分かってないなぁ、と思います」


永井君が残念そうにそう言った時、私は毎年の就活コースで落ち続けて来なくなる学生のことを思った。


就活コースは就職の塾のような場所だが、やはり結果を出す学生は、とにかく欠席しない。


面接対策も、自分の志望業界や興味のある業界ならやるという態度ではなく、とにかく全部来る。


そして、私や大月さんが「大事」だと言う読書合宿や講座にも出席する。


面接は何も「就活で一夜漬け」のようなアクロバットではなく、平素の学生を確認する場にすぎないので、受かる学生ほど、「就活だから」、「面接だから」などという動機付けはしない。


就活を理由に他のことに手を抜く自分が嫌で、就活だけでなく、授業もバイトも頑張っている。


就活だからといって、何も特別なことはないのだ。



もちろん、今までの学生生活と違って「企業」というものと向き合うし、未経験の作業もいくらかあるため、最初はそれなりに緊張して不安も抱くが、だからといって迷ったりはしない。


経験者や先輩のアドバイスも素直に聞くし、聞いて勉強になると思えばすぐに取り入れ、真似する。


一方、落ち続ける学生は気分が乗らなければ来ないし、欠席した回に既に話していたことを、一ヶ月くらい遅れて質問してくる。


相手は小学生や中学生ではないのだ。


大学生だ。



私は、欠席して大事な回を聞き逃してほしくないから、いっそのこと「おまえ、絶対休むなよ!」と言おうと思ったことは、それこそ何十回もあるが、大学生相手にそこまで言うのはどうかと思って、言葉を飲み込む。


来た時はそれなりに感動している。


だから次も来てくれるか、と期待する。


しかし、来ない。


また来る時は、「持ち駒ゼロになりました…」。


「分かってないなぁ」


と思わずにはいられない。



しかし私は、FUNでもmai placeでも強制はしない。


強制すれば来させる自信もあるし、来ないことへの恐怖感を煽るのも簡単だ。


しかし、私はそんなのは嫌だ。


私の方にも、ずっと行き続けて学ぶ価値のある講義はできていないのかもしれない、と反省材料を持っておくのは大切だと思うし、自然に全員が来続けるようになるまで自分を高める努力もしたい。


しかし、それにしても、このままじゃ受かりっこないと分かりきっている学生を見ていて、「絶対来い!」と言えないのはもどかしい。



mai placeは仕事だ。


仕事なら、預かったお客様の結果を出すのは当然だ。


だが、受からない学生に限って、自分は能力があるし、案外捨てたものじゃないと思っていたりするのだ。


そういう学生ほど、「今度、面接対策しようか?」と持ちかけると「来週、いとこの子供が遊びに来るんで…」などと言う。


分かってない。



まぁ、本人にとっては、「いつでもできること」と「今やらなければならないこと」の区別の基準は、そんなものなのだろう。


そう思えば、危機感が低いことにも頷ける。


しかし、「じゃあ、面接が不安とか言うな」とも思う。


そこに質問できる人がいて、そこに使える時間的余裕があって、そこに既に内定した人がいて、そこに必要な対策が打てる機会があって、どうしてそれを選択せず、「不安」だと言うのだろうか。


いつもテレビゲームをやっている人間が、「入試が不安なんです」と言っているようなものではないか。



私は人格を尊重する人間だ。


相手の人生観を強制的に変えてまでサービスを提供しようとは思わない。


だから、ほぼ無料の就活コースと有料の新人コースではかなりの格差を設けている。


別に500円だから手を抜くなどということはしないが、就活コースでは教えられないことがあるのだ。


来たり休んだりの学生と、ずっと来続ける学生とでは、教えられることが違うのだ。


そんなのは、野球部もサッカー部も一緒ではないか。



最近はさりげなく個別フォローの機会を作ってみたり、就活の目的別対策を考えたりして、少しずつ接点を作っているが、なんとももどかしい限りだ。


学校なら「成績が悪い奴は居残って補習だ」と言えば済むのだろう。


しかし、大した成長もないまま、再度面接に臨む学生たちを見るのはかわいそうだ。



悲しいが、私の面接の予測はよく当たる。


私が心配しているのは、結果が出ていない学生以上に、「出そうにない学生」だ。


どこにも頼るところがなくなって、mai placeに来てくれたのだろう。


そう考えれば、有り難いことではないか。


明日は大月さんとmp6にこのことを話してみよう。



ちなみに、ドトールのBCでは植村さんも一緒だった。


そこでは、植村さんの子供の頃の話を聞いた。


なんでも、子供会の遠足か何かで、切符代をちょろまかす大人がいたらしいのだ。


その日の文献は「みあと志たひて」の『責任観念の権化』だったので、欧米人と日本人の責任感を比べて語り合っていたのだが、「今も日本は変わらないのかな」とちょっと寂しげな語り口だった。



そんな植村さんの話から、私の昔の地元で、永井君が今住んでいる場所とも近いJR天拝山駅の話になった。


あの駅は、今はどうか知らないが、私が住んでいた当時は、夜8時くらいになると無人駅になっていた。


私は二日市で降りていたのだが、夜は無人になるからと、わざわざ天拝山駅で降りている知人がいた。


それで片道約100円、月に数千円くらい得しているらしい。


博多よりもっと遠い場所から来て降りれば、確かに目先の「得」は増えるだろう。


「ちょっと余計に歩くことさえ我慢すれば、得するんだぜ」。


とか言っていた。



しかし、そいつは多重債務者になった。


正規料金をケチるような奴がどれだけキセル行為で得したところで、所詮その程度の金銭感覚では、貯金すらできまい。


あの時キセルでケチったお金だって、どうせその後、缶ジュースにでもなったのだろう。


その後どうなったか知らないが、数百円の欲による損失は、その後何倍になったのだろうか。


ふと、そんなことを考えた。



就活でも、キセル乗車に似たようなことをやる学生もいる。


正当な負担なく、他人の経験の残りかすをうまく組み合わせてのその場しのぎを、さも「昔からそうでした」と言うような連中だ。


内定したらさっさと友達を見捨てるような学生が、どうして「私の長所は、感謝の気持ちを忘れないことです」などと言うのだろうか。


こういう連中も、いずれ多重債務者かそれに近い存在になるだろう。



私はmai placeに来てくれた学生からは、そんな若者を出したくない。


だからこそ、仕事や会社を真剣に学ぼうと言い続けている。


が、聞いてくれない学生もいる。


学生と、どの程度の線引きで接するべきか。


近現代の深い学びを通じて接する学生たちの姿があまりに素晴らしいだけに、最近は改めて、そんなことを考える。

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