2009年5月19日火曜日

近現代と学生

今日から営業塾・第8期が始まったのだが、部屋に入ると上村君と山岡君が「大東亜戦争とスターリンの謀略」の衝撃を語り合っていた。


二人とも、一日25時間、週に8日は一緒にいるくらい仲がいいので、私の聞いた部分はほんの一部かもしれないが、それにしても驚いたようだ。


おそらく、本という本の中で、あれほどショッキングな内容を持つ本はほとんどないのではないだろうか。


しばらくたって、今週見学に来るという竹内君が、「あれ、なんですか?」と驚いていた。


落ち着いて丁寧な竹内君もまた、びっくりたまげたようだ。


思わず、近現代史勉強会が始まった時の石橋君や、それを受け継いだ濱山君たちの表情を思い出した。


近現代の文献は、衝撃の度合いや希少性で選んでいるわけではないが、例年、共産主義の恐ろしさにはどの学生も背筋が凍る思いがするようだ。


文豪・堤君はどう感じたのだろうか。


歴史や文学に対して学生らしからぬ深い素養を持つだけに、感想が気になるところだ。


営業塾が終わって、長崎から戻ってきた池田君と会った。


池田君はまだ読んでなかったようだが、代わりに、以前から探していた「共産主義批判の常識」を手に入れたようで、なんと、全部を通読して、今が二回目だという。


しかも、「面白さが分かるようになった」と言っていた。


これは、すごいことだ。


チャーチルは「20歳までに共産主義にかぶれない者は情熱が足りぬ。20歳を過ぎても共産主義にかぶれている者は知能が足りぬ」と言ったが、私もそう思う。


ヨーロッパでは、共産主義を内から剔抉できるかどうかが、その人の知性を判別する一つの条件となったようだが、それも頷ける気がする。


私も大体、歴史や古典に対する素養、つまり国語力で相手と分かち合う話題の質を決めている。


学生とはざっくばらんに話すが。



東洋なら、主観と客観の問題は儒教や仏教で深く論じられているし、マルクス、レーニンの主張は道元、親鸞とは全く逆だ。


自己を客観視できるかどうかを判定するのに、仏教の経典は非常に有益だが、悪い素材を以て判定するのなら、共産主義の文献は非常に有益だ。


だから、「共産主義批判の常識」が面白いという学生を見ると、考えを共有できるという以上に、きちんと文字、文章を読めているのだなと感心する。


今日の池田君の話を聞いたら、原田君、増田君、大津君がどれだけ喜んだだろうか。


松下さん、諌山君、竹中君がどれだけ喜んだだろうか。



そもそも、私が職業教育を志した直接的原因は、父が仕事がうまくいかずに亡くなったからだ。


だから、「仕事」というものにとても興味があった。


また、歴史に興味を持ったのは、祖父母、父、叔母が相次いで早いうちに亡くなり、自分のルーツを知る手立てを失ってしまったからだ。


この喪失感は並大抵のものではなかった。


だから私は、一人で、父の生きていた時代のことを調べ始めた。


最初はそれが最も大きなきっかけだ。


学校の歴史など、どうでもよかった。


私はただ、父が生きた時代のことを知りたかった。



調べていくにつれ、父の生きた時代は「社会主義」が一つの大きなテーマだったことを感じないわけにはいかなかった。


子供の頃、父と叔父がいろいろと言い合っていたことも思い出した。


父が生きていたら語り合いたいことを、今、学生たちと語り合っている。


これはこれで、幸せなことだ。


歴史や就職、会計、営業、何を語っても全て人生と結びついてしまうのは、私が昔からそういう位置づけで勉強してきたからだ。


学んだからには結果を出さなければならない境遇でずっと生きてきたからだ。


唯物史観の研究から財務諸表や法人営業を説明するなんてアクロバットをやっているのは、日本で私以外にいないのではないかと思っている。


私は学校を出ないですぐに働いたから、実社会の経験から物を考え、後から理論を学んだ。


だから、自分の講義はサロンや論壇では語られない卑俗な現実の話が多い。


どんな話でも、一切専門用語を使わずに説明することができるようになったのは、ゼロから自分で全て学んできたからだと思う。


15年以上の遠回りは、思い返せば長い道のりだったが、最近は経験と独学が相乗効果をもたらしてきたことを如実に実感している。


あとは、当時の私より有能で熱心な学生たちが社会に出て、FUNやmpの学びの威力を証明してくれるだろう。


有望な教え子たちと有能な仲間に囲まれて、本当に幸せだ。


しかし、まだまだ全ては始まったばかり。


本当にやりたいことは、40歳くらいから始まる予定だ。


あと6、7年、しっかりと人材を育てていこう。

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