2009年6月4日木曜日

近現代の講義

これまでに学生の前で何百回の講義をしてきただろうか。


私は座って話すよりも立って話すほうが好きだし、座談よりも演説の方が得意だとも思っている。


これまで経営者、社会人、主婦、子供、学生…いろいろな人たちの前で話してきたが、ほとんど緊張しない性格なので、前に立って頭が真っ白になったことなど、記憶がない。


一番緊張したのは、韓国の教育セミナーに参加した時、朴槿惠氏(朴正煕元大統領の長女)の前でスピーチした時だが、あの時も韓国語でスラスラと話せた。


私は前に立って、聴衆の反応や表情をゆっくりと確かめ、スピーチ自体を共同作業として一緒に作っていく過程が好きだ。


しかし、その例外がただ一つだけあることに最近は気付き始めた。


毎週水曜にやっている近現代史勉強会の講義は、話し始めると自分でも止まらなくなってしまうのである。


近現代だけは、座ったまま話しているのであるが、それが止まらない。


別に緊張しているのでもないし、ましてや、内容が覚束ないなどということでもない。


近現代の内容は、スピーチ塾やマネー塾以上に深く記憶しているし、私の20代の空き時間は、ほぼこういう勉強に投じられてきたために、緊張するような理解度ではないと思っている。


私はこの勉強会だけが唯一、言葉や語調を選ばなくて良い勉強会だと思っているためか、近現代で話していると、逆にいつもは案外気を遣っているのかと感じるほどだ。


もちろん、その気の遣い方とは、学生だから実社会の予備知識がないだろう、という気遣いでもあるが、それ以上に、育ちの悪い私が時折発する、調子の厳しい言葉に対する自制である。


それが、近現代では、何の遠慮も制約もなく、のびのびと話すことができる。


学生たちはどう思っているか知らないが、私は近現代が一番気楽で落ち着く。


それは何も、手を抜いているとか、土曜と水曜だけが私服で息抜きができるなどという意味ではなく、本当に語り合いたいことを語り合い、言いたいこと、伝えたいことを悔いなく話すことができて、幸せだということである。


だとすれば、私たち日本人は日頃、どれだけ相手の反応や表情を無意識のうちに観察しあい、知らないところで気疲れしているのだろうか。


もちろん、社交の範囲での遠慮や妥協はこの限りではないが、思い切って伸び伸びと語り合える場が得られないことは、時として閉塞感や徒労感を招く。


私は自分が率先して大胆に問題に切り込むことで、学生たちに、「ここは、ここまで話していい場なんだよ」ということを伝えたい。


国家、家族、人生、人間愛、歴史、学問なんて、学生同士でいて、まともに長時間、深く語り合うことがあるだろうか。


学生たちだって、本当はそんな真面目なテーマで、思いっきり語りあってみたいと思っているはずだ。


どれくらい「思いっきり」かというと、近現代から将来の夫婦やカップルが生まれるくらい、ここでは深い話題が分かち合われるようになればと思う。


人間の相互理解や相互尊敬は、結局、何をどう共有するかで決まるのだ。


だとしたら、歴史以上に人間そのものと、それを語る人の人格を表現する素材はないと思う。


近現代で読む文献は貴重で、私は何百万投じてきたか分からないが、それさえほぼ無料で提供して惜しくないのは、こんな立派な若者たちと一緒に学べる喜びは、いくらお金を積んでも買えないからだ。


文献以上に、一緒に学べる仲間こそ最高の財産だと思う。


同年代にそんな仲間が二十名前後いる学生たちは、ちょっと恩着せがましいが、本当に幸せ者だと思う。



ということで、私はいつも学生に「相手の存在を思うことが大切だ」と偉そうなことを言っているのだが、こと近現代に関しては、実はあまり相手の顔が見えていなかった気がしてきた。


それくらい、この話題を分かち合えるのが嬉しくて楽しいのだが、学生はどう思っているだろうか。


「楽しそうな小島さんを見るのも嬉しい」などと言う奇特な学生はいないだろうが、立場的に批判や忠告は受けにくいので、自分で観察して適応していくのも必要だと、今日の講義が終わってから感じた。


来週からは、学生の反応も見つつ、さらに良い講義を作っていきたいものだ。

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